差別用語というデマ「言葉狩り」に騙されるな!1/3

かつて「○○は差別用語だ、理由は△△という語源に基づくから」と言われた説の多くが誤りである事が、近年だんだん明らかになりつつあります。

しかし、かつてその間違いを一生懸命になって唱えていた人達にとって、それを暴露されるのは、どうやら気にくわないらしい。

「確かに差別的な語源ではないが」と認めたふりをして見せて、「語源はどうあれ今は差別用語」と開き直る。

「差別用語という見解はもう広まってしまったから使わない方がいい」「誤解でも人を傷つける事がある」などと、その誤解を広めたのが誰なのかを棚に上げたまま、厚かましくも、その誤解を正すどころかさらに広めていく。

気を付けよう。こんな「マッチポンプ」的、「後出しじゃんけん」的な屁理屈に騙されてはならない。

ある言葉が差別発言かどうかは、彼らが勝手に「その言葉は差別用語」と言い出したかどうかで決まるのではない。文脈で決まるのです。



■はぁ?「子供」が差別表現だって!?

新聞で「誘拐」を「誘かい」、「拉致」を「ら致」と書くのは、常用漢字表にない漢字だからだそうです。

日本人はそれくらいの日常的な漢字も読めないだろうと思われて、新聞社に馬鹿にされている。「炭疽菌」を「炭そ菌」と書かれては、「炭素菌」と勘違いしてしまいそうだ。

二酸化炭素は炭そ菌の仲間なのだろうか。しかし、これくらいなら、まだ可愛いほうです。「子供」の「供」は小学校で習う漢字のくせに、わざわざ「子ども」と書く新聞社や出版社が多い。

表外漢字どころか、小学校で習う漢字すら読めないと思われて、我々は馬鹿にされているの?実は、驚くかもしれないが、「子供」という言葉が、今、「差別用語」として、出版界や教育現場などあちこちから追放処分を受けているのです。

その代わりに、「子ども」と、「供」をひらがなに直した表記ばかりを目にするようになった。

全く誰が差別用語だと言い出したのか?レッテル貼り、言葉狩りも甚だしい!



■こどもの「ども」は複数形の「共」に由来

いつ頃からこの言い換えが始まったのでしょう?一説には、昭和二、三十年代頃と言われているが、羽仁説子という人が、『供』という字は『お供』の『供』、付属物の扱いみたいだから良くないと言ったのが始まりらしい。

果たしてそうなのだろうか?明治二十二年に初版が発行された「言海」という国語辞典(私が所持しているのは昭和四年の縮刷十五版)で「ども」(こども)を引くと、このように書いてある。


-ども (名) |子供| (一)多クノ子。衆兒 (二)ワラベ。兒童

なるほど、確かに、「子供」とは「多くの子」が元々の意味らしい。つまり「男共(おとこども)」が「男」に「共」を付けて複数の男を表すのと同じで、「コ」に「ドモ」を付けて複数の子を表す「コドモ」になったのだ。

しかし、現代語で「子供」は「こ」+「ども」ではなく、「こども」という一つの語になってしまっている。

それを示す二つの証拠がある。まず、「子供」と似た例に「友達」があるが、これも今では「とも」+「たち」ではない。

一人の「子供」も一人の「友達」もいるし、複数形は「子供等(こどもら)」「子供達(こどもたち)」や「友達等(ともだちら)」である(逆に「男共等」とか「男共達」とは言わない)。

次に、「オトコドモ」は「男共」と書くのに、「コドモ」は「子共」とは書かず「子供」と違う漢字で書く。

このように、現代語では元の意味(子の複数形)がすっかり薄れてしまっているのである。

つまり、「コドモ」の「ドモ」とは、元々は複数形を表す「ドモ」であり、後に「供」の字が宛てられたというのが、この言葉の語源です。

何故この字が宛てられたのかは、はっきり分かっていません。しかし「親のお供という意味で供の字を宛てられた」という証拠は、今のところ出てきていない。

証拠もないのにイメージが悪いからと縁起担ぎだけで日本語の日常重要単語を一つ抹殺されてしまっては、全く迷惑な話です。

この点を指摘すると、さすがに「子ども表記原理主義者」も痛いところを突かれたのか、苦しい言い訳をします。

「子供」は連想による誤解であったとしても、誤解が成立する言葉をわざわざ用いることはないと思う。などと言う。

馬鹿げた言い訳です。

「意味を誤解され易い言葉だからいけない」のではなくて、正しい意味を知らずに勝手に誤解した方が悪い。

そもそも、大抵の人は、「子ども表記原理主義者」に彼らの馬鹿らしい教えを吹き込まれない限り、そんな誤解などしていない。「子ども表記原理主義者」が勝手に妄想をふくらませているだけの話だ。


■子供が「子ども」になる時、日本は終わる?

さて、仮に百歩譲って「供」の字は親の「お供」を連想させるという説を認めるとしても、まだ疑問は残る。

子供は本当に「供」でないのだろうか?「お供(お伴とも書く)」とは、ある人に付き従って行く人の意味です。

子供はいつから親に付き従わなくてよくなったのだろう?子供が「子供」でなくなった時、それは「子ども」が親の指導に付き従わず、「人権」の名の下に勝手気ままな行動をして人に迷惑をかけたり犯罪を引き起こしたりする時代であり、それはまさにこの現代社会なのだ。

誤解して欲しくないのだが、誰かが「子ども」と書いているからと言って、即、言葉狩り賛成論者とレッテル貼りするのではなく、差別云々という理由ではなく、(かつて当用漢字音訓表外の読みという理由で「友達」を「友だち」と書いていたのと同じく)「子供は宛字なので平仮名で書く」という方針だったり、「子ども、と書いた方が柔らかみが出る」という理由から、どちらかというと「子ども」という表記の方に親しみを持っている人も少なくない。

私自身は「子供」表記を主に使っているものの、「子ども」と書くのは絶対駄目だとまでは言わない。

私が寧ろ問題に思うのは、他人に「子ども」表記を無理矢理押しつける事です。



■とある掲示板で見かけた書き込み

味噌煮込みコアラさんという方へ

現在は元のサイトでは無くなっていますが、当時の内容がInternet Archiveに残っています。

差別用語の不名誉なレッテルは、無実な言葉にこうやって貼られていく。



■「差別用語」という言い方では、文脈を無視して単語のみに罪を着せる事になる。

ある特定の単語を避ければ良いという問題ではない。インターネット掲示板で「死ね」と書かずに「氏ね」と書けば脅迫に当たらないという考えが間違っているのと同じで、「片輪」や「気違い」や「エタ」という語さえ使わなければ「身体障害者」「精神障害者」「被差別部落民」に対する中傷発言が許されるという考えも間違っている。

残念ながら日本では「差別用語」という言葉が広く使われてしまっているために、まるで単語に罪があるかのように思われてしまっているが、本当は、単語でなく文脈に問題があるのです。「差別表現」はあるが、「差別用語」は(侮蔑専門語の例外を除き)ない。

某外国人による犯罪が多発しているからといって、「○○人は犯罪者予備軍だから、みんな日本から追放しろ」と言うのはあまりにもナンセンス。

それでは、ある言葉が中傷や差別に誤用される可能性があるというだけで、「差別用語」というレッテルを貼って日本語から存在を抹殺するというのは、どうだろう?

それに、差別表現はあくまでも枝葉の問題であり、根っこである差別意識を根絶しない限り、いくら刈り取っても雑草のようにしぶとく伸びてくる。

雑草に見える枝葉だけ刈って満足するのは本当の差別撲滅運動ではなく、人々に自分の善行を見せつけるだけのパフォーマンスに過ぎない。

それに、行き過ぎた行動は、雑草だけでなく穀物まで刈ってしまっている事が往々にしてある。



■「差別用語」でなく単に「放送・出版自粛語」に過ぎない事が多い。

あるテレビ番組や出版物で、特定の言葉の使用が自粛されていたり、別の言葉に書き換えられたりしている事がある。

これは「差別用語」だから使わない事にしたのだろうか?必ずしもそうとは言えない。

実は、一般に「差別用語」と言われている言葉の大半は、本当の意味で差別用語、つまり差別的罵倒専門語ではない。「万一傷つく人がいるといけない」と余計なお節介をする余りに、差別的な用語でも何でもないのに、放送・出版の世界で使用を自粛しているだけの事が多い。

気を付けないと、我々も特定の言葉を「差別用語化」して使えなくしている勢力の片棒を担いでしまいかねない。

例えば我々は、「あるテレビ番組で『乞食』という言葉が消されていたが、それは差別用語だったからだ」とか「今は『百姓』という言葉は差別用語になっていて使えない」などという誤解を広めてしまうことがあるだろうか。

これは、大手のマスメディアが垂れ流している誤解をそのまま広める事になりかねない。

これはあくまでもマスコミ側の独自に定めた基準に過ぎず、我々の日常生活での基準とは異なるし、それに合わせる必要もない。

我々は、特定の言葉を文脈を無視して機械的に退ける愚を犯すことなく、マスコミ以上に正しく実際的な基準を追い求めていくべきである。



■言葉に対する差別が進み、「差別者以外に殆ど使われない語」という既成事実が作られていく。

良くも悪くも使われてきた、ある単語に、ある日「差別用語」の罪を着せられてからは、状況は一変する。

その語を使うのは、少数の「差別確信犯」と「それが濡れ衣だと知って使っている人」を除くと、「それが差別用語だと知らない人」だけになる。

しかもこの層は、「知らなかったんですか、それって差別用語で、使っちゃいけないんですよ」と言われると「知りませんでした。今後(良い文脈でも)一切使いません」となる。

このようにして結局、差別的でなく使ってきた層がどんどん減ってしまい、あとは少数の「差別確信犯」と、それより少ない「それが濡れ衣だと知って使っている人」だけが残る。

結局、「差別者以外には殆ど使われない語」という既成事実が作り上げられてしまうのです。

「○○は、かつては差別用語ではなかったが、今は差別用語であると認識されている」と説明する人は多いが、こんな主張を聞くたびに、私は憤りを感じます。その語を「差別用語化」してしまったのは誰なんだ!?責任者出て来い、と。



■逆にそれらの語を使ってきた父祖に対する差別と冒涜です。

「かつては、今では差別用語と認識されている語が広く使われてきた」という説明もよく目にする。

まるで昔の人間がみんな差別主義者だったかのようにみなす差別発言を、私は許さない。(しかし、「かつては、今では差別発言と認識されている表現に日常的に接したものだった」という表現なら正しかろう。

例えば学校で「おい、そこのメガネ!」と生徒を呼ぶのは、クラスによってはごく日常の風景だったし、左利きとか色盲等を「身体的欠陥は人間的欠陥だ」などと、人を傷つける発言をする人だって、結構いた。

しかし、人を傷つける表現の問題と、用語の問題を混同すべきではない。また、言うまでもない事ですが、昔の人がこんな人ばかりではなく、時には「そんなこと言ったら傷つくでしょう?」とたしなめる姿もまた日常的だった。)

なるほど、文脈からしても明らかな差別発言が問題であるのなら、一理あるだろう。しかしそうではないようだ。

差別的でなく普通にそれらの語を使ってきた父祖たちを、「差別用語を使ってきた」などと差別的な目で冒涜するのはよして欲しい。



■差別用語反対運動は、政治的活動と結びついている事がある。

全てがそうではないが、場合によっては、ある極左集団や反日勢力、カルト宗教団体、左翼市民運動団体などの連中が、特定の言葉は「差別用語」だと主張してイメージダウン「印象操作」させ、使いにくくさせている場合がある。

例えば、ウーマンリブ運動が一番有名かもしれない。また、「子供」を「子ども」と書くことは、子供は大人に従うことよりも自分たちの人権の方が大切だとの政治的信条から出ている事がある。

また、自分たちのグループの主張を宣伝する事とか、人権教育が行き届いていない福祉に対する意識が遅れている事を強調して、そのグループが受け取る福祉予算を増やしてもらうことが目的だったりする(もちろん、それが本当に必要な予算なら、予算そのものは私も賛成だ。

しかし卑怯な手法で予算をもらおうと企む手段はいただけないし、予算の無駄遣いは問題だろう)。

もしあなたがその団体の政治的イデオロギーを受け入れないのであれば、その「差別用語」だという主張も一度疑ってみる必要があるだろう。

少なくとも、どんな政治的意図が背後にあるのか、一度調べてみるべきです。



■そしてその「差別用語反対運動」は、弱者をダシにして、グループの信条を巧妙に押し付けている場合がある。

弱者にしか痛みは分からない、弱者の気持ちになって考えろと言いますが、その「弱者の気持ちになって考える」とは、グループの信条や方針を受け入れるという意味に他ならないことが往々にしてある。

この詭弁に惑わされてはならない。皆が持つ弱者への労りの心に便乗すれば、弱者をダシに使えば、どんな屁理屈でも通用すると考えるのは大間違いである。

左翼は巧みに弱者をダシに使い利権にタカるのが得意です。騙されないで下さい。



■こういう訳が分からない事を言う奴が要るから、変に腫れ物に触るような反応になる。

「うっかり口を滑らせたら人権団体に酷い糾弾を受けそうで怖い」という恐怖が一般に蔓延している原因はまさに「差別用語」の名の下の大袈裟な言葉狩りであり、それは社会的弱者に真の思いやりを示すどころか「何かされたら怖いから」という消極的な理由で見かけばかりの「思いやり」を示すだけに終わる。

そして、「弱者はこういう常識知らずのわがままな輩ばかりだ」という誤解ばかりが一人歩きして、かえって差別感情を深める事になる。

結局、社会的弱者とそうでない者との溝を埋めるどころか、さらに一層溝を深くすることになりかねない。

当事者にとっても大きな迷惑であり、寧ろ「差別根絶の敵」と言えるでしょう。



■「番組中に不適切な表現があったことをお詫び致します。」

テレビでこのテロップを時々目にする。(きっと、出演者の誰かが差別用語を口にしてしまったのだろう)そう思うかもしれない。

しかし、所謂「差別用語」と言われる物の中には、元々「差別用語」でも何でもないのに、「差別用語」だと言いがかりをつけられてしまっている物がかなり多いことを御存知でしょうか?

「めくら」などの言葉が放送禁止であるという話になると、よくこんな言葉を耳にする。しかし私はその時こう言う。


「あなたは悪くないのです。それに、元々「差別用語」でも何でもないんです。ただ、野菜を切る包丁で人を斬れば犯罪になるのと同じで、使い方を誤れば差別用語になる、それだけの話なんです。」

パソコンで「どもる」という言葉を打とうとした時、その言葉は日常使うにもかかわらず、なかなか変換できない。何と、「どもる」は差別用語扱いされてATOKの変換辞書に入っていなかったのです!

周りの人はともかく、当事者でさえ差別用語だなどと全く信じられない言葉に、このようにして「差別的で日常生活から排斥すべき言葉」のレッテルが次々と貼られてしまっているのです。



■「盲目的」はダメで「近視眼的」はOK?

「めくらめっぽう」や「盲目的」は「盲人差別」のレッテルを貼られているのに、「近視眼的」は「近眼差別」に該当しないのだろうか?

近眼で眼鏡やコンタクトを付けてる人は日本中に星の数ほどいるのに、抗議する人などまずいないのは、何故だろう?

素朴な疑問ではあるが、何かおかしいと思わないですか?



■誰だってキチガイになるし、ビッコも引く

先程「どもり」の例をあげましたが、緊張するとつい「どもって」なかなか言葉が出ない。そんな経験は、医師に「吃音症」と診断された人でなくとも、誰だって経験する事ではないてじょうか?

ある会社の事務の人が月末は伝票の整理で忙しくて「きちがい」になってたと言っていたのを思い出す。

そういう意味で「きちがいに」なる事とか、「気が違ったように」激怒するような事は、別に精神病と診断された人じゃなくとも、誰にでもあります。

足に障害があるなどでなくとも、片方の足をくじいたら、「びっこをひく」のは誰でもそうである。

どちらも、守備範囲の広い言葉です。一時的な「どもり」も慢性の吃音症も「どもり」と呼び、一時的な「きちがい」も慢性の精神錯乱も「きちがい」と呼ぶ。

このように、慢性的でなくとも、一時的にとか比喩的には誰もが経験するような事柄です。(しかし、どの「どもり」も必ずしも「吃音症」ではなく、どの「きちがい」も必ずしも「精神異常」ではない。必ずしも守備範囲の狭い言葉で言い換えはできない。)

このような言葉を正しく用いる事は「差別を助長する」どころか、寧ろ「我々は『障害者』や『患者』と呼ばれる人々と別の世界に住んでいるのではない。我々だって同じなのだ」という観念を無意識のうちに培う事になっているのです。



■人権を盾に権利を踏みにじるクレーマー達と、事なかれ主義のテレビ局

特にテレビ局の場合、視聴者からのクレームに極端に反応し過ぎているのが、この「差別用語」問題の原因なのです。

確かに視聴者の誠実な意見に耳を傾ける事は大切ですが、中にはトンチンカンな理由で「〜は差別的だ」「〜は差別用語だ」、とクレームを付ける思いこみの激しい人も結構いるのです。

それまでならまだしも、差別を撲滅する為なら、相手にヤクザまがいの脅迫まで辞さないという反差別団体もあり、これもまた問題を厄介にしている。

このようなクレーマーの文句や、行き過ぎた反差別団体の恐怖の糾弾に巻き込まれるよりは、最初から無難に避けておこう、というわけです。

各テレビ局とも門外不出の差別用語ガイドラインがあるらしいが、どうもこれが「学校の小使さん」がダメだ、「日雇い人夫」がダメだ、「床屋さん」も「百姓」もダメだ、と、あまりにも極端な物のようである。

これらの言葉が差別用語リストに載っていたなんて信じられないという人の方が多いだろう。

結局、このような差別用語ガイドラインは、本当に差別的だから特定の用語を禁止するというよりは、特定の用語を差別的だとクレームを付ける視聴者によるトラブルを未然に防ぐ、事なかれ主義的なものなのです。



■いわゆる「差別用語狩り」は歴史修正主義

百歩譲って、これらの言葉が本当に「差別用語」だとしても、私は過去の作品や資料にまで遡って「差別用語」を抹消する事は本当に良いのだろうかと首をかしげます。

ヒトラーのユダヤ人虐殺のような考えを皆が二度と持たないように、その歴史をあらゆる歴史書からぬぐい去ろうとしている反ナチ団体、日本人が二度と南京市民を虐殺しないように、「南京大虐殺」の歴史をあらゆる歴史書からぬぐい去ろうとしている中国人の団体が、果たしてあるだろうか?

抹消せずに残しておく事こそ、その作品や資料の作成された当時の差別の歴史を、そのまま証拠として残す事になるのである。



■本当に「被差別者の気持ちになって言葉を選ぶ」とは?

私は片手落ちなんて言葉は使わないようにしている。障害や事故で片手のない人がその言葉を聞いたらと想像すると、そんな言葉は使えない」という意見も耳にする。

ある個人がそう判断して特定の言葉を使わないと決定することは自由だから、私はその決定そのものに文句を付ける筋合いはないし、思いやりの気持ちそのものは素晴らしいと思う。

しかし、私個人としては、その考えには疑問です。(完全な誤用だし見たことも聞いた事もないが)「この片手落ち!」と片手のない人に対する罵倒語として使うのにはもちろん反対だが、しかし、「片方に対する配慮が足りない」という正しい意味で「片手落ち」を用いる事は全く問題ないと思うし、そこまで気にしてタブー語にするのは考え過ぎだと思います。

仮に、私が片方の腕を無くしてしまったとします。それでも私は、恐らく「片手落ち」という語を禁止することに対して「そこまで大げさに気を遣ってくれる必要なんて全然ないよ!」と言うでしょう。

また、そのタブーを破って「片手落ち」という言葉を使った子供に、親が声をひそめて「いけません、そんな言葉使ったら、この人が悲しい思いするでしょ?」なんて言っているのを、私が聞いてしまったなら、私は寧ろ怒るだろう。

日常会話で「片手落ち」という言葉を普通に使うことよりも、この態度の方が余計差別的な感じがして嫌です。

そんなの、障害者への思いやりなんかではなく、むしろ障害者を特殊なものとかタブー的にしてしまっていると思う。

これこそまさに、現代の「差別用語狩り」の態度だと思う。車椅子に乗った人を指さして「あのおじちゃんの乗ってるの、何?」と言う子供を「そんなこと言うもんじゃありません、それにジロジロ見るもんじゃない!」と小声で窘める事によっては、差別は決してなくならないし、障害者への思いやりも決して生まれない。

寧ろ、自分の差別的でない純粋な行動に悪とタブーのレッテルを貼られたその子供は、障害者は自分と違う特殊な世界の存在で、障害者について考えるのはタブーな事と思うようになるだろうし、車椅子の人を見かけても声を掛けにくくなるでしょう。

特定の言葉を所謂、社会的弱者に大げさに気を遣い過ぎてタブー化する事も似たようなものだと思う。

(それにしても、特定の言葉が差別的であるとする主張が論破された時に限って、「意図は差別的でなくても、そう思われる可能性もあるでしょ」「配慮が足りない」という言葉で、無理矢理にでも差別にこじつけるような気がするのは私だけだろうか?)

しかし、だからと言って私は「きちがいは精神病院で脳波診てもらえ!」などと見境無く自由に言って構わないと主張しているわけではない。

所謂「差別用語」扱いされている言葉に限ったことではないが、言葉にはTPOというものがあるのだから。

カツラやエステの会社がテレビ局のスポンサーに付いている限り、「ハゲ」や「肥満」という言葉は、恐らく永久に放送禁止用語にならないだろう。

なるほど、テレビでハゲや肥満をからかったブラックジョークが出るたびに、ハゲや肥満の人は傷ついているのかもしれない。ゆえに、面と向かって「ハゲ!」「肥満!」と嘲笑する事は避けるべきとしても、だからといって「ハゲ」や「肥満」を差別用語とするのは行き過ぎだろう。

それらの言葉を正しい時・場所・状況において正しく用いることは全く正当なことであり、それと同じ事なのです。



■Q&A

Q「差別用語に関する規則は、何らかの公的機関が定めたものなんですか?」

A「いいえ。我々が日常で使ってはいけない言葉に関する規則集を作っている公的機関などありません。」

もっとも、法律用語や役所用語を改める(たとえば「看護婦」を「看護師」、「らい病」を「ハンセン病」、「精神薄弱」を「知的障害」など)ことは、時々あります。

しかし、これはあくまでも法律用語上、役所用語上の問題であり、日常生活で個人個人が使う言葉を制限する決まりではありません。

もちろん、決まりがないからといって、どんな言葉でも使って良いという話にはなりません。

「言葉を使うことには、自己責任が伴う」ということです。「使う際に周囲の人に気を付け、むやみに人前で振り回さない」「渡す時は柄の方を向けて渡す」などの常識を身につけて正しく使う時、鋭い刃先を持つナイフは正しい道具となります。

言葉とは、刃先の鋭いナイフのようです。巧みな道具として用いるには、同じように注意して使わなければなりません。



Q「差別用語を使うと法律で罰せられるのですか?」

A「いいえ。そんな法律は日本に存在しません。」

「差別用語」云々というのは、法律で決まっているわけではなく、あくまでも出版社や放送局の自主規制です。また、」それゆえに出版社ごと、放送局ごとにガイドラインが異なり、あるテレビ局でOKの言葉でも、あるテレビ局では放送禁止だったりします。

例えば、千葉テレビでは「小人(こびと)」は、まずカットされず放送されます(「まんが世界昔ばなし」再放送で、ガリバー旅行記も白雪姫もちゃんと「小人」が出てきました)が、日本テレビではカットされることがありました。(「リボンの騎士」再放送で、小人の出てきた回はカットの嵐で散々でした)。

もっとも、特定人物の名誉を傷つけるために「差別用語」を使うなら法律で罰せられることはあります。

しかし「差別用語」を他の言葉に置き換えても名誉毀損は同じです。例えば特定人物の名を挙げて「誰々は(被差別)部落(出身)だ」という秘密を周りに言いふらすなら、名誉毀損になる可能性があります。

でもこれは「部落」という言葉を使ったことそのものが悪いのでなく、遠回しに「○○は同和地域出身だ」と言い換えたところで同じことです。

単語そのものが悪いのではなく、言葉の使い方が問題なのです。でもこれは差別用語以前の問題なので、良識ある皆さんなら分かるでしょう。



Q「それではなぜ出版社やテレビ局は“差別用語”に敏感なのですか?」

A「人権団体などからクレームが付くかもしれないので、あるいはクレームが付くことを恐れての反応です。特に後者が主な原因だと思います。」

とはいえ、すべてのクレームが見当違いな言いがかりだなどと私は言いません。明らかに侮辱的、差別的な発言というものも確かにありますし、それらが指摘によって正されるのは良いことだと思います。

しかしその一方で、どう考えても見当違いな言いがかりが付けられることもあります。

そのような時、出版社やテレビ局は、作者や出演者を弁護し、それは間違いであるとはっきり指摘する必要があると思いますが、何故かそうしない場合が多いと思います。

「一人でも不快だとか差別だと思う人がいるなら、その言葉を使わない方がいい」というのが多くの出版社やテレビ局の方針であり、実際、「この言葉は差別的でないか」というクレームが一件でもあるならば、すぐダメになってしまうケースが多いらしいです。

それが例え正論でなのかデタラメなのか関係なくです。それどころか、後に調査したところ、そのクレームなど最初からなく、これこれという言葉は差別表現だから使わない方がいいという噂ばかりが一人歩きしていたケースが、大半を占めるようです。

それにしても、「一人でも不快に思うなら放送するな」という論理が一方では過剰なほど通って、他方では無視されるとは、どうなっているのでしょう?

例えば私が、芸能人のプライバシー侵害をする写真週刊誌とかエロ雑誌とか、いじめ茶番劇を演じるダウンタウンやロンドンブーツの番組の存在を気に入らないからといって、みんなは楽しんでるけど、私は不愉快だから出版や放送をやめろと言ったら、本当にそうしてくれるでしょうか?

もし地下鉄サリン事件で有名になったオウム真理教が「自分たちをカルトと呼ぶのは少数宗教に対する差別表現だ」とか「自分たちを新しい正式名称で呼びたがらないのは差別の現れだ」などとクレームを付けたら、本当に止めてくれるのでしょうか?

あえてそうしないという確固たるポリシーがあるはずの出版社・放送局が、「差別表現」問題になると途端に尻込みしてしまうのは、どうしてなのか…



Q「一部のネット掲示板では日常的に差別発言が行われていますが、差別発言者は法律で罰せられないのでしょうか?」

A「例えば「お前、ほんまアホやなあ。頭おかしいんちゃうか」。←これは、前後の文脈や状況によって、また言われた人によって、この同じ言葉を冗談半分の愛情表現と取る人もいれば、甚だしい侮辱と取る人もいます。」

言った人も言われた人も既に十分納得の中で、冗談として言ってるつもりだったのに、突然警察が中」に割って入って、発言者を逮捕するとしたら、困った話です。

差別発言を含め侮辱的な発言というものは親告罪、つまり、言われた当人が侮辱(刑法第231条)とか名誉毀損(刑法第230条(1))だとして訴えた時に初めて、法的な問題となります(刑法第232条(1)本章ノ罪ハ告訴ヲ待テ之ヲ論ス)。

もっとも、この質問にあるような、ネット掲示板での差別発言は、相手が快く思ってなかったり、明らかな差別意識の現れであったりすることが殆どでしょう。

ですから、相手を侮辱や名誉毀損で訴えることもできなくはありません。

しかし、一々訴えてたら火に油を注ぐだけの事が多いのと、弁護士費用やそれに費やす時間も馬鹿にならないので、泣き寝入りが多いのでしょう。

残念ながら結局、掲示板利用者の良識や、掲示板管理者のしっかりとした管理に頼るところが大きいと思います。



■差別表現規制論の常識を疑え

◆そんな言葉を未だに使うなんて“教養がない”証拠だ。

◆マスコミの基準は我々の模範だ。

◆とりあえずマスコミの自粛語を使わないように気を付ければ、差別をなくすことになる。

◆侮蔑語に似た響きの言葉は、文脈からして全く違う意味とわかるとしても、使うのを控えよ。

◆ある言葉を不快に思う人が一人でもいるなら、使うのを控えよ。

◆良いイメージで使われる言葉が、悪いイメージでも使われるようになったら、その言葉は悪い言葉になる。

◆「差別用語」自粛は現代の風潮だ。それに乗らないなんて時代遅れだ。

皆が持つ弱者をいたわる気持ちに便乗すれば、弱者をダシにすれば、どんな屁理屈も通用すると考えるのは大間違いです。種明かしをしてみせましょう。


◆そんな言葉を未だに使うなんて“教養がない”証拠だ。

おやまあ、これで差別反対者とは聞いてあきれた。この「教養がない」とは、どんな人の事を念頭に置いて言っているのでしょうか?「教養がない」とは「無学である」とか「あまり物事を知らない」という意味だったと思いますが、皆さんに、この発言のおかしい部分に自分で気付いてよく考えてもらうために、私のコメントはあえて省略します。


◆マスコミが実際に自主規制しているくらいだから、私たちも差別用語を個人的に自主規制すべきだ。

マスコミはマスコミ、自分は自分です。

本当の意味での差別用語なら私自身もこの意見に賛成です。しかし問題なのは、差別的でない語や表現に言いがかりを付けられて過剰な自主規制がなされているケースが大半を占めていることです。

また、マスコミの基準はあくまでもマスコミの基準であって、個人の基準ではないということも知ってください。似た例として、マスコミは「セロテープ」「プラモデル」「サランラップ」「宅急便」などの会社の商品名を使わず、いちいち「セロハンテープ」「プラ模型」「食品用ラップ」「宅配便」などと言い換えることがあります。NHK教育の工作の番組で商品名の部分にテープを貼って隠したり、民放のドラマでもスポンサーのライバル会社の看板が出るとモザイクを掛けていることがあります。

しかし、私たちもこの方針に従うべきなのでしょうか。いいえ、これは単にテレビ局などマスコミだけの方針に過ぎません。あくまでもマスコミの都合上、特定の企業を宣伝していると誤解されそうな語を自主規制しているだけで、我々の日常生活での基準とは全くかけ離れたものであり、それに従う必要は全くありません。

同じように、マスコミが決めた“差別用語”リストも、あくまでもマスコミの都合上のものであり、我々が日常生活での基準とは全くかけ離れたものであり、それに従う必要は全くありません。

とは言え、マスコミが決めた「差別用語」リストは、百パーセント意味のないものとも言えません。用法に気を付けないと人を傷つける可能性のある言葉を集めたものだからです。ただ、マスコミは文脈を判断せずただ機械的に言葉を禁止していることが多いので、それが問題なのです。我々はその間違いを犯すことなく、どんな場合はその語を使ってよいか悪いか、またどんな用法がとくにまずい使い方なのかを判断する力を培いましょう。


◆確かに「バカでもチョンでも」「チョンボ」「チョンガー」の「チョン」は朝鮮人蔑視のチョンとは違う。しかし、言葉の響きがその侮蔑語と誤解されやすいので避けるべきだ。

それは気にし過ぎです。

逆に私も質問します。韓国人にチョン(全)さんという名前の人がいます(そういえば、全斗煥元大統領も全という姓です)。何が何でも「チョン」と言ってはいけないのなら、この人を何と呼べばいいのですか。

すると恐らく、「全さんはチョンさんとしか言いようがないから仕方ない。でもチョンボやチョンガーはミスとか独身男とか幾らでも言い換え語があるから使ってはいけないのだ」とか、「日本語はいけないが、韓国語なら構わないのだ」などという反論が返ってくるかもしれません。まあ、この苦しい言い訳をした人には、「それでは、日本語読みでゼンさんと呼ばないのは何故なのか」「日本語はいけないが、韓国語ならよいという根拠はどこにあるのか」をゆっくり考えてもらうことにしましょう。


◆ある言葉を不快に思う人が一人でもいるのなら、その言葉を使うのを避けるべきだ。その事実を無視してあえてその言葉を使うのは言葉の暴力だ。

受け取る側の快・不快だけに頼った判断は危険です。それに、確かに無頓着なのも考え物だが、極端なほど気をもみ過ぎるのも考え物です。

結論から先に言うならば、他の人が自分の言葉を不快に思わないかどうかに、あまりにも無頓着なのも考え物だけど、かえって極端なほど気をもみ過ぎるのも、やはり考え物でしょう。

大体、あんなことを言ってたら、何も言えなくなりますよ。例えば、「もしかしたら見たり聞いたりしているかもしれない受験生が不快になるといけないから、『落ちる』『滑る』という言葉は使うべきでない」とか「新婚カップルが不快になるといけないから、『切れる』『終わる』という言葉は使うべきでない」などと言ってたら、もう使える言葉はどんどん無くなってしまいます。

若者には、電車やバスで老人に席を譲るのをためらってしまう人が多いそうです。それは何故かというと、「おばあちゃん、席どうぞ」と言うと、「わたしは年寄りではない!」と怒られてしまうことが時々あるからです。自分が良かれと思ってしたことが、相手を傷つけてしまったのです。しかし、だからと言って、「老人を傷つけてしまう事があるから、老人に席を譲るのは止めよう」とか「老人、年寄り、おじいちゃん、おばあちゃんという言葉は老人差別用語だから今は使えない」などと言うのは、極端な行動です。

昔、イソップ物語の「ろばと親子」という話を聞いた事のある人は多いでしょう。子供がろばに乗ると「親を乗せるべきだ」、親がろばに乗ると「子供がかわいそう」、二人がろばに乗ると「ろばがかわいそう」、二人がろばを担ぐと「おかしい事をしてる」と言われてしまうという、あの話です。

全ての人が満足する心地良い話し方、などというのは全くの幻想です。何を言ったって、その言葉につまづく人は必ずいるし、何をやったって、文句を言う人は必ずいます。しかも、こちらが良かれと思ってしたことが、良く思われないなんて、ありふれた事です。もちろん、その意見には本当に良いものもあって、本当に改善しなくてはならないこともあるでしょう。

しかし、勘違いに基づいた意見だとか、わがままだとか、馬鹿げた意見にまで、何も考えずハイハイと返事することはありません。そんな事をしていたら、あのろばを担いだ親子のようになってしまいますが、それを笑っていられないのが、今の日本の現状なのです。

それでも納得してくれないのなら、私からもお願いがあります。私は“差別用語”という言葉は、使い方を無視して言葉に罪を着せている責任転嫁の態度が見え見えなのでとても不快です。こどものことを「子ども」と書くのは子共と侮辱しているみたいで不快です。こういう言葉を嫌がっている人は私の他にも大勢いますが、あなたがそういう言葉をいつもいつも使うのは言葉の暴力なのではありませんか。

さあ、人の嫌がる言葉を使わないのがあなたの信条なら、これらの言葉を使うのをちゃんと止めてくれますか。もしそうしないのなら、それはどうしてなのか、よく考えてみてください。

最後に言わせてもらいます。確かに「差別用語は歴史が作り出すもの」かもしれませんが、その歴史を作り出そうとしているのは、言葉が多様な意味に使われてきた歴史をわざと隠蔽して「不快なイメージ」一色に塗りつぶそうとしているのは、言葉狩り推進論者の側ではありませんか。盗人猛々しい。歴史修正主義反対者が聞いてあきれます。


◆知らない事も差別だ。無意識の発言が、弱者への配慮を欠くことになる。

その「弱者への配慮」とは、本当に当事者自身が思っていることですか。それとも周りの人が変に気を遣っているだけですか。

知らない事と言いますが、一部の人が勝手に決めた変テコな決まりなら知らなくて当然です。自分たちだけの間でしか通用しない勝手な決まりを作って他人に押しつけ、それも正論ならまだわかるものの、なぜ守らなくてはいけないかと問うと「疑問を抱くこと自体おかしい」「差別用語は差別的だからいけない」ばかりで全然理由になっていなくて、しかもそれを守らない人を差別主義者扱いするというのは卑怯ではありませんか。

私にとってこれは「エッヘン、自分たちは人権意識に目覚めた人間で差別をしてないぞ、周りの人間は差別ばかりしてるおばかさんばかりだ」などと自分や自分のグループが威張りたいためにスケープゴートを探しているだけのように見えて仕方ありません。

なるほど、本当の意味で差別発言をする人が、弱者に対する配慮が欠けているということには、私も同意します。

しかし、現在広く見られているような、何も差別的でない表現まで、重箱の隅を突いて揚げ足を取って糾弾する態度こそ、配慮の欠けた行動ではありませんか。「うっかり口を滑らせたら人権団体にひどい糾弾を受けそうで怖い」という恐怖が一般に蔓延している原因はまさにこれであり、それは社会的弱者に真の思いやりを示すどころか「何かされたら怖いから」という消極的な理由で見かけばかりの思いやりを示すだけに終わります。社会的弱者とそうでない者との溝をより深くすることすらあれ、埋める事など期待できません。言葉狩りはむしろ「差別根絶の敵」と言えましょう。


◆弱者の痛みは弱者にしかわからない。弱者の立場に立って考えてほしい。

だから言葉狩りは正しいとでも言いたいのですか。論理が飛躍しています。それに、弱者をだしにして自分の意見を押しつけたいという魂胆が見え見えです。

確かに、弱者が差別される痛みは弱者にしかわからないというのは事実です。だから弱者の立場に立って考えるのは大切な事です。弱者を差別してはいけない、弱者を差別する発言をしてはいけない。これも正しい事です。

しかし、だからこれこれの単語は“差別用語”だと決まっていて、使ってはいけない、と来るのは論理の飛躍です。弱者をだしにして自分の意見を押しつけたいという魂胆が見え見えです。あたかも自分が弱者の総意を代表しているかのように誤解しています。そのような考えの人も一部にはいるかもしれませんが、実際には多種多様の考えの人がいるはずです。

なるほど、ナイフで切られる痛みはナイフで切られたことのある者でないと理解できないでしょう。だからもしナイフが皮膚を切ってしまったらと考えるのは大切な事です。喧嘩にナイフを使ってはいけない、ナイフで人を刺してはいけない。これも正しい事です。

しかし、だからナイフは“人殺しの道具”で全く使ってはいけないというわけではありません。見知らぬ人が自分にナイフを向けたら怖くて逃げるけど、大好きな母親が果物ナイフで林檎をむいていたら逆に母の膝元に寄ってくでしょう。ナイフは鉛筆を削ったり、工作に使うなど良い目的に使うこともできます。山登りでは登山用ナイフを携帯しますが、人殺しの道具どころか人間の命を救うために使われることもしばしばあります。

言葉も同じことです。ナイフのように刃先の鋭い言葉は、確かに気を付けて使わなければなりません。しかし、人を傷つけるかもしれないから全く使ってはいけないというのは行き過ぎた態度だと思います。そんなこと言ったら何も言えなくなります。いわゆる“差別用語”でなくたって、人を鋭く傷つける表現はいっぱいあるので、単語単位でこれは良い悪いという判断には限界がある上に間違っていると思います。


◆「ちびくろサンボ」という題名は差別的意図がないから良いと主張する人がいるが、差別的意図がなければどんな言葉を使っても良いのか。差別的意図がなければ、外国で「ちびきいろジャップ」とか「ちびきいろエタ」という絵本が出版されてても良いというのか。

たとえが悪いです。

「ジャップ」や「エタ」のような人種・民族や社会的階級を表す語とは異なり、「サンボ」というのは元々人の名前であり、比較の対象になっていません。もっと適切なたとえを考えましょう。

かつて一般的に使われてきた、あるいは現在も使われている人の名前に、特定のイメージが付くことは、よくある現象です。まず日本語の例を出しますが、「太郎」「花子」という人名は「男の子」「女の子」という意味でも用いられます。昔広く使われていただろう「五右衛門(ごえもん)」「権兵衛(ごんべえ)」「権太(ごんた)」「お亀」「お岩」という名前に、どんな別のイメージが付いているかについても、あえて語る必要はないでしょう。最近の例でいうなら、「冬彦」さんという名前は、“キモいマザコン”の代名詞的にしばしば用いられます。

英語にも同じような例があります。Jackはさしずめ日本の「太郎」といったところだし、Johnは便所の意味として使われることもあります。Lolitaという女性名は説明するまでもないでしょう。

「サンボ」という名前も、確かに黒人を含め色黒の人をからかう文句として悪用されることがありました。しかし考えてみてください。日本人の中には、黒人とか色黒の人に、たとえば「クロマティ」とか「サンコン」などといった渾名(あだな)を付けたがる人がいます。私が小学生の頃には、「少年ケニヤ」という渾名が嫌で嫌で仕方なかった色黒の級友がいました。

これに似たことではないでしょうか。それでは、「クロマティ」という言葉が黒人をからかう言葉に悪用されることが一般的なら、昔巨人軍にいたクロマティ選手の話をすることも、「クロマティ」という名前の黒人野球選手の出てくるフィクション作品を作ることも、たとえ黒人差別の要素がなくともタブーになるのでしょうか。そんな馬鹿な話はないはずです。「サンボ」という名前についても、同じ事が言えるのではないでしょうか。


◆言葉の意味は時代によって変わるから、今は差別的意味なのだ。「貴様」や「おまえ」は昔は親しみのこもった言葉だったからと言って、今でも使って良いという理由にはならないのと同じだ。

一つの言葉には多様な意味やイメージがあります。新しく付いた悪いイメージが残りつつも、昔からの良いイメージでも使われる言葉というものがあり、正反対の意味のどちらになるかは使い方次第なのです。

おっしゃる通り、「貴様」は、親しみのこもった言葉としての用法は今では死語に近くなりました(「同期の桜」という歌を知っている人なら、出だしの「貴様と俺とは、同期の桜」というのは親しみのこもった表現だというのがすぐわかるでしょう)。確かに、良いイメージがほとんど絶滅して、悪いイメージで使われるようになった言葉というものは、あります。

対して「おまえ」はどうでしょう。親友や家族などの間では親しみのこもった言葉になるのは皆さんも御存知のことでしょう。つまり、親しみのこもった言葉としての昔からの意味と、後に付け加えられた、相手を見下した言葉としての意味とを、両方持つ言葉なのです。これは当然、その言葉の使い方によって意味が正反対に変わってしまいます。

例えば、「昔は敬語だったからいいのだ」などと言い訳しながら、初対面の人だとか会社の上司を「おまえ」とか「貴様」と気安く呼ぶのは失礼でしょう。言い訳にならないし、場をわきまえなければなりません。それは大人げないことであると言っておきましょう。

似た例として、「めでたい」という言葉もあります。これは元々良い意味だったのが、後に「あんたはおめでたい奴だ」のように悪口にも使われるように変わっていきました。しかし、「合格おめでとう」とか「結婚おめでとう」と言うのは「あんな変な学校に入ったなんておめでたい奴だ」「あんな奴と結婚したなんておめでたい奴だ」などと誤解されるといけないから控えるべきだなどと考えるのは、考え過ぎというものです。このように、一つの言葉には多様な意味やイメージがあり、使い方によって変わるということを忘れてはなりません。

「言葉の意味は時代によって変わる」のは確かですが、言葉の意味を変えようとしているのは、言葉の多様な意味を滅ぼして「差別用語」のイメージ一色にしようとしているのは、言葉狩り推進論者の側ではありませんか。盗人猛々しいというものです。詭弁でゴリ押しした後、既成事実を盾に開き直れば受け入れられると考えるのは卑怯者の考えです。「言葉が乱れる時国は滅びる」とも言いますが、まさに国語の破壊行為です。

かつてTBSの「全国こども電話相談室」で、ある小学生の質問に永六輔先生がこんな興味深いお答えをしていました。以下に引用します。

Q. はがきとかに「○○様」って書くけど、同じ「様」を使う「貴様」という言葉はいい言葉なんですか? 小3・おんな

A. あのね、実は「貴様」っていうのは、もともとは相手を悪くいう言葉ではないの。「貴い」という字と「様」という字で構成されているぐらいだからね、昔はとっても大事な人のことを「貴様」って言ってたのね。

それがだんだん「きさまぁ!」って、悪くいう感じに変わってきちゃったの。他にも、例えば「馬鹿」って嫌な言葉でしょう?だけど、お母さんがキミのことが可愛くて仕方がなくって「バカねぇ」っていう時って全然嫌な感じがしないじゃない?こういう風に、言葉というのは意味がだんだん変わってくる場合があるんです。

それから、もう一つ。あなたのお友達でも自分のことを「ぼく」っていう子がいるでしょう?あの「僕」という言葉は本当は「しもべ」と言う意味で、一番悪い言葉なんです。それがだんだん意味が変わってきて、普通に使える言葉になったの。昔は自分が相手に対して「私はあなたより身分が低い」という意味で使ったんだよ。

面白いね、言葉って。使う人の問題なのね。「貴様」っていっても大事な意味できちんと使う人もいれば、相手をいじめる時に使ってしまう人もいるんです。本当に言葉というものは、使う人が意味を変えてしまうものなんです。だから、キミもこれから言葉は大事に使って下さいね。

放送タレント・故人 永 六輔

差別用語というデマ「言葉狩り」に騙されるな!2/3へ続く





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